実は直球なグロにあまり耐性がないので途中でオゲーとなっていたものの、考えさせられるというか、インパクトのある映画だった。ただのホラーとしては観れなかったというか、恐怖や嫌悪を狙われているのはわかってるけどそれだけではないいろんなものを受け取るというか。
ふせったで書きなぐったものを見失わないうちに移植。
どこもかしこも思いっっきりネタバレなので下げておきます。
・あの明るく鮮やかな絵面が「快楽の園」と言われていて、なるほどな!と思った直後、作中の絵が「非現実の王国で」っぽいという話に、なるほどな!!(二度目)となった。ヘンリー・ダーガーもグロいところとことんぐろいもんな。
ほんとはヤクがキマってるからあの鮮やかさ・明るさなのかもしれないけど、彩度も明度も高いのは「暗闇(隠すべきもの/隠れているもの)」を恐怖の主眼に据える一般的なホラーとは違って、あれらの行為がみな、彼らにとっての「光(受容されているもの/隠す必要のないもの)」として出てくるだからだ、という理解をした。 くるぞくるぞ…という煽り演出というか前フリなどなくいきなり顔面ぐちゃった死体が画面にご登場なさっちゃうのも、あれは「老醜をさらすことなく尊厳を守り、自己犠牲の死で次世代へ命を引き渡した」わけで、彼らにとっては目を背けるようなものではない、ということかなーと。
全体的に「馬々と人間たち」と似た印象を持った理由もまさにこれ。つまり、血肉飛び散る残酷さも性的なあれこれも、恐怖をあおるためではなく日常の延長として存在しているという位置づけだから白昼堂々だし、これは特別な激情や狂気ではないよ、と伝えてくる。ゆえにコミュニティ外の人間にとっては、自身の持つ「死のタブー」「性のタブー」「食のタブー」とのギャップが際立って、非常に強い忌避感・嫌悪感に襲われつつ、いやこれは彼らにとっては日常だ、という、一種驕った理性による反駁のはざまに落ちてのたうち回るはめに。
儀式セッのシーンは男性が観るほうが精神的にダメージ受けそうだなと思った。普段は自分が性行為において主導権を握れる(と思っている)ことが多いだけに、クスリぶちこまれて選択権も自由意志も奪われ、相手の「家族」たちの衆人環視の中で事に及ばされる嫌悪感と恐怖は新鮮かつ強烈だろうと。 女性の場合、自分の意思ではなくパートナーの欲求だとか社会的な要請に(あるいは暴力に)従わされ、期待されて行わざるを得ない性的な行動というもの自体がそもそも、現実社会にもフィクション作品にも大っ量に転がってるので、歓びの要素や自由意思を削られた「他者・共同体に要求される"儀式"としての性行為/性的な役割」に対して麻痺にも近い耐性がありそう、な気がする。立場が男女逆だと、「ふーん、若い女が血統存続のために薬盛られて儀式性交ねぇ…ベタだなあ」くらいの感想になってしまうのでは。正直、個人の人格ガン無視される性的な場面が「あるある」なの、ホラー映画より現実の方がグロいわ。
肉パイ陰毛混入のシーンでクリスチャンの飲物の色が他より濃かったと思ったんだが特に触れられず…直後に出産につなげるためのあの儀式性交が開催されてるし、月経周期的に経血じゃない気もするんだけど…どういうことなの。
ダニの泣き女役になってくれる彼女たちに、本能的というか脊髄反射で愛や安堵を感じること複数回。「一緒になって/率先して泣くことで傷を引き受ける」って感覚、やっぱ世界共通なんだな。
惜しいというか、ちょっともったいないなと思ったのは、ジョシュがあまりに軽率だったこと。 本気で研究する気があった彼だからこそ、迂闊に写真撮りにいってあっさり見つかってさっくり殺されるのはご都合展開感あるな、と。彼だけは自殺儀式を知っていたし、閉鎖的コミュニティで彼らの禁忌を冒すリスクも理解しているし、機会を逃さないためにも、もっと慎重に行動して、それでも発見されてドボンするほうが納得できた気がする。 いや、尺も無限じゃないし、意図して簡単に済ませたのかもしれないけど。 あと、下手人(ぽい人)、コミュニティ外の人間に禁忌に踏み込まれたというのに、悠長に皮マスク被ってから襲いにいった理由がどうもわからない。あれが作中の必然性ではなくて観客に対する恐怖感&ミスリード狙いだとしたら、うまいこと理由をつけて欲しかった。それ以前にわたしはアレが皮だと気づいてなかったわけだが…w
逆に、ダンスシーンはとても説得力があっていい。ドラッグによるトリップ、極限まで疲労させてのハイ状態、大勢でやる単調な動作とリズミカルな音。どれもトランス状態まっしぐらな要素……さらにはイタコ的な、言語の壁の一時的消失の描写も「あー」と思った。いいよねこういう超常っぽい体験の描写。
コミューンの思考で、わたしの大好き(と言っていいのかどうかわからないけど重要な命題)な題材である、「はてしない物語」の船乗りたちを思い出した。 彼らは別に、一人称が常に「わたしたち」なわけじゃないけど、個の感覚が非常に薄いうえに、誰かの感情を積極的に共有反射して全員で悲しんだり喜んだり、生命のサイクルにおける自らの死と次世代の誕生を直接結び付けたり、非常に「群体」的だと思う。彼らの感情の共鳴には原始的な愛を感じるといったけど、これまさに、バスチアンが船乗りたちに「受け入れられ」て孤独を癒すあのシーンでは、と。ダニは孤独で、尊重されていなくて、苦しみに寄り添ってくれる人がいなかったがゆえに、ダンスバトル(おい)の勝者としてコミューンの女王になり、一緒に泣いてくれる「友人/家族」を手に入れ、ちゃんと「所属」できて、共同体の一部としての存在意義を得たんだもんな。 ラストのダニの表情は、これまでの、ひどく苦い現実との間につながれた"最後の臍の緒"であるクリスチャンを指名して殺したことで、ひとりのアメリカの大学生としての立ち位置とか、背負った苦しみや孤独と決別して、このコミュニティに所属する覚悟を決めた、「生まれ直した」晴れ晴れしさによるものかなと思っている。
…とりあえず、頭の中身をちょっとだけ整理したらこんなところか。なっが。