Why do I have to do that? ~動機の話Ⅱ~
- 驟雨
- 9月6日
- 読了時間: 12分
更新日:9月7日

あれ!? 2024年はまとまった記事を何も書いていなかった!?
昨年は仕事でだいぶ白目剥いており……サイバーシナリオの導入みたいな目に遭いました。いつかリアルにそういう導入のシナリオを書いたらァ……!
それはともかく、クトゥルフ神話TRPGを中心に色んなタイプのシナリオをプレイヤーとして遊ばせてもらってきて、書くものにも少しずつバリエーションが出てきたので、このサイトを持った最初のころにも悶々と考えていた「動機」というものの扱いについて再考してみたいなと思います。
特定のシナリオに対する言及はないのでネタバレも含まれていないと思いますが、自作に関してはうっかり漏れているかもしれません。ご了承ください。
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まず、わたしはCoCを初めて遊んだのがかなり古く、公式とそれらに近い形式のシナリオをたくさん遊んできたので、動機・動線の考え方についてもそのへんが強く反映されています。
そういったシナリオの多くはゲームマスターに向けて書かれていて、「プレイヤーに向けた一本のストーリーとしての形」では提示されない。極端に言えば、シナリオは「プレイヤーの行動に応えるためにゲームマスターがあらかじめ抱えておける情報リソースやイベントの案」なわけです。実際に遊ぶときには、キャラクターの行動に応じて、シナリオ記述からくみ取った背景情報・作中世界の状況をもとに、ゲームマスターが進行を編む……要するに、物語を紡いで話を前に進める「推進力」の大部分が、プレイヤーとゲームマスター(つまるところ人間)に委ねられた遊びだと感じます。
この遊び方をするうえで、プレイヤーとそのキャラクターの「動機」というものは凄まじく重要です。「Why do I have to do that?(なぜ、わたしはそうしなくちゃならないのか?)」という問いが、作中のすべての行動の前に問われると思ってください。
屋敷を探検する(なぜそんなことを?)
他人の机の中身を漁る(なぜそんなことを?)
怪しげな呪文を覚える(なぜそんなことを?)
とまあ、こんな感じです。まあ大変です。なぜなぜ期の子供だと思えってくらいしつこい。しかもそれらの場面の多くには、それを行動に移す「動機」だけでなく、それを行動に移すことを阻害する「反・動機」が同時に存在します。たとえば
屋敷を探検する(興味もないのに?)
他人の机の中身を漁る(他人のプライバシーを暴くのはどうかと…)
怪しげな呪文を覚える(お経とか祝詞とか唱えたって、大暴れする怪獣が消えるわけないでしょ)
こう。「現実的な抵抗感」や「行動理由の不在」が水を差して、シナリオに期待される行動を取ることができないことはよくある。現実では、危ないとわかっているのに真夜中には行動したくないし、倒れている見知らぬ人の荷物を漁るのは、たとえ本人確認のためであったとしても躊躇する。
もちろん、プレイヤーは非現実とわかっていてそのゲームを遊んでいるわけで、ある程度までは「動機」も「反・動機」も自分たちでうまく理由付けして処理する必要があります。が、シナリオ自体があまりにも「動機」を軽視してしまっていると、そもそも、プレイヤーの意識がそちらに向かず、進行のエンジンがかかってくれないことがあります。
反・動機の解りやすい例は「犯罪に近い行動」ですが、これと同じくらい注意しなければならないのが「理由の不在」……「キャラクター本人に明確な目的がないかぎりしない行動、行かない場所」のパターン。
たとえば「箱からティッシュを全部引っ張り出して一枚ずつ並べる」とか、何の理由も動機もなければやらないし、そもそも脈絡なく思いつきすらしないですよね。あるいは、犬を飼っていない人は自室で犬を探さないし、そもそも「自分の家に犬がいるかもしれない」とすら思っていない。私は某S.A.Cの荒巻課長の「知らないものは探さない」という言葉がすごく好きなんですが、つまりそういうことです。動機もなく、予期も予想もしていないところに、人間の目は焦点を結ばない。当たり前っちゃ当たり前なんですが、この感覚はとても大事です。
しかしこれが「ノベルゲーム」になると、ちょいちょい軽視されている場面をみかけます。
なぜなら、ほとんどのノベルゲームは進行の駆動力がシナリオ側にあり、プレイヤーには続きを読ませ、選択肢を選ばせればよいというつくりだから。たとえプレイヤーが「なぜこの場面で急にそんな行動を……」「突然何を言い出したんだこの主人公」と首をひねりまくったとしても、とりあえず続きを読むことさえしてくれれば、何らかの情報が出たりイベントが起きたりして、ああ、そういう……。という後付けの納得がきて、次へ進むことができてしまう。むろん、これを頻繁にやらかすとゲームのUXが下がり、続きを読むことさえされなくなってしまうので、良いゲームを作るにあたっては注意すべき点でしょうが、それでも、ノベルゲームのほうが要求が緩いように思います(というか、逆かもしれません。特にクトゥルフ神話TRPGのような、あまりシステマチックでないTRPGは、遊ぶ人間に進行の動力部分を委ねるからこそ、この「動機」の作り込み要求が相当厳しくなる)。
でも、この「物語における駆動が人間(プレイヤー)側にあると感じさせてくれる遊び」と「そのために作り込まれたシナリオ」の面白さを一度味わってしまうと、これがまあ、ハマるんですよね……。少なくともわたし自身が「TRPGって面白いなあ!」と思ったのがまさにこの理由でした。なので今でもCoCが好きで、初めてインセインをやったときは結構戸惑ったんですが、それはおいておくとして。……あ、ちなみに去年初めてKutuluを遊ばせていただき、かなりやりやすかったです。
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で、ここから手前味噌をこねまくりますが、特に去年は、拙作を遊んでくださった各方面から「動線の構築が丁寧」「ゲームとしての構造がよくできている」といったお褒めの言葉を複数いただきました。自分としては、特に後者(ゲーム性)は苦手ジャンルだと思っていたので、ややびっくり。というか今も、自分がベースとなるシステムの判定やルールを活かした作品づくりが得意だとは思えないのですが、もしかしてその"よくできている"の意味するところは、システムやルールを活かしているというよりは「プレイヤーの動機と呼応するようにシナリオを作っている」ということだったのかな、と。
わたしの周囲にはシナリオをDIYするCoC畑の友人が多いため、シナリオの構造について雑談したり、アドバイスを貰ったり意見を伝える機会に恵まれている方なのですが、文字通り類友ということもあり、「動機」「反・動機」についてはよく話題にあがります。口語的に言うなら「動きやすさ/動きにくさ」。自作に対しても、遊んだものに対しても、動機の切り口から見た評価(とまで呼んでいいのかはわかりません、所詮はコンテクストを共有した身内だけの感想合戦なので)は必ずついて回るし、「このシナリオは動きやすかったね~」「これはPLがシナリオ想定をメタで読み取らないかぎり、PCとしては動きようがないよね」みたいな会話をよくしている。
が、身内からいったんカメラを引き、今の日本の同人CoC界隈を見ると、この感覚/この切り口をさほど重視していない作者・プレイヤーって思ったよりずっと多い……のか! ということに気づき始めたのが収穫でした。あれ? この雑談、今やっと導入終わって本編? すみません、酔っ払いの壁打ちノープラン出力なので構成もへったくれもないです(考えてる内容を考えた順番に入力欄に打ち込んでる)。
話を戻して。この「動機」について、特にクラシックに近いシナリオだとシナリオ進行の駆動力を人間(GMとPL)が担うことを前提に書かれていることが多いので、ある面ではとても投げっぱなしです。導入とか合流とか、特に。「目の前で事件が起きたら警察じゃなくたって調べるでしょ?」「あなたの隣に気になる話してる人いるよ? 会話に加わればいいじゃん」「ぼっちで記憶喪失の子供NPCが困ってるんだよ!自宅に泊めてあげるよね!」くらいのノリ。いやいや、しないよ!? 常識的に考えてさあ! というようなものが多い。今までの表現に沿って言うなら、「動機・理由はあるが、反・動機は考慮されていない」感じ。事件への関与とか、フックNPCとのつながりとか、探索者同士の合流とか、「動機を阻害する要素はその場のプレイヤー(GM含む)が何とかしてね☆」というシナリオが山ほどある。だからこそ、この手のシナリオをよく遊ぶ界隈あるいは時代において、「導入で依頼を受けない探索者問題」やら、「事件を警察任せにして帰宅しちゃう問題」が話題になったんじゃないかと。
あくまでわたし個人の肌感覚ですが、この点については、最近のシナリオは割と丁寧にケアする傾向にあると思います。事件に首を突っ込みにくい? 依頼を引き受ける理由がない? じゃあ、参加キャラクターを「それを仕事にしている人」に限定し、堂々と事件に関わらせよう(職業固定シナリオの隆盛)。動機なしには踏み込みにくい? じゃあ、参加キャラクターには動機となる設定を必ずつけてもらおう(キャラ設定に介入するハンドアウトつきシナリオの隆盛)。この解決方法はもちろん長所ばかりではなく、プレイヤーからキャラクターメイクや行動の主体性や決定権を奪うことになります。結果的に、クラシカルなシナリオ群を遊ぶ環境だとプレイヤーは「どんなジョブ、どんなパーソナリティの人物でこのシナリオに関わろうかな~」と考えますが、ハンドアウト系の、職業やキャラに制限をつけるシナリオ群を遊ぶ環境においては、プレイヤーは「このジョブ、このパーソナリティをやりたいからこのシナリオで遊びたい」というふうに"遊びへの入り方"を変えることになっているのかもしれません。
ちなみに、自分は両方そこそこの数やってきて両方の長所と短所をそれぞれ感じた結果、この差は純粋に、好みやプレイの得手不得手の問題だなあという感覚です。専門性が高くて一般人では関わりにくい事件・事象に、その道の専門家たちが「これは自分たちのやるべきことだ」と堂々と取り組めるシナリオも楽しい。逆に、自らの意志でキャラクターを事件に関わらせ、プレイヤーたちが自分の手で「素人質問で恐縮ですが(実は専門家でしたの割り込みムーブ)」とか「普段はタダでこんなこと、やらないんだがね(守銭奴の気前良しムーブ)」といったキャラクター演出を、進行上強制されることなく自ら盛り上げ、作りこんで、自分たちだけの物語を生み出せるのも楽しい。縛りの強いシナリオの、「ここぞあなたの見せ場!」というシナリオのからの掛け声に応じてハンドアウトを握って飛び出せば、スポットライトをしっかり自分に向けてもらえる構造のありがたみも十分に理解できます。
話がだいぶ逸れましたが、クラシックが「反・動機」をあまりケアしてくれないことが多い一方、一種その鏡写しのように、今人気のある・触れることの多い日本の同人CoCシナリオのうちの少なくない数が、想像以上に「動機や理由」を重視していないのかも……という話をしたかった。
というのも、これ、「反・動機のケア」とかかわっている事象なのでは?と思うところがありまして。
「きっかけがあってもその行動はなかなか選ばない」という「動きにくさ」を解消しようと様々な工夫をこらしてケアをしていった結果、それを専門とする職業シナリオという設計、ハンドアウトでキャラの動機を強制的に作る手法、取れる行動や行ける場所を最初から"選択肢"で提示するスタイル……が定着し、「キャラクターが自ら理由・動機にしたがって起こすアプローチ」が薄くてもゲーム進行が駆動力を喪わないつくりになった反面、「プレイヤーとキャラクターの行動理由や動機をほぼ考慮しない」傾向に寄っていってないか?ということですね(いや、もちろんこれだけが理由じゃないとは思うのですが、一因として)。
行動に悩まない・困らないようにケアすればするほど、駆動力をプレイヤー/キャラクターに依存しないようにすればするほど、今度は「自分の中に芽生える自然な動機で行動し、行動の結果として情報を得られる・事件が起きる」という主体性や応答性が重視されなくなり、遊ぶ側の期待も薄れていく、という、表裏一体の関係性になってるんじゃないか。「動きにくさ(反・動機)」と「動きにくさ(理由の不在)」は天秤のようなもので、片方を抑えることに腐心しすぎてしまうと、結局「動きにくい」と感じることになってしまうんじゃないか……みたいな。
偉そうなことを言ってますが、自作も「動機づけ」の拙さや力不足はあり、「探索者が行動を起こせず、そのまま作中タイムリミットが来て虚無エンディングを迎えてしまった……」みたいな話を耳にしたことがあります。典型的な「理由の不在」型の問題ですね。シナリオ作者が100%の責を負うわけではないのですが、もっと強く動機づけしたり動線を引いたほうがよかったな、あるいはせめて、ここはやることがなくなる(理由が不在になり、行動がとれなくなる)かもしれないから、メタでプッシュお願いしますとGM向けに書いておくとか、そういう配慮は必要だったかも……という反省はあります。最近はなるべく明確な「動機」を与え続けるようにシナリオ進行を考え、そこに生まれる「反・動機」を軽減する、みたいな作り方を意識しているかも。こう考えると、やはり「頼まれごと/依頼案件」や「自分や親しいものの命の危機」という導入は動機としてわかりやすくて扱いやすい。とはいえ、依頼モノは報酬とリスクのバランスで反・動機が発生しやすく、命の危機モノは対象者が安全になると行動理由が消失してしまうので、動機をうまく持続させたり次の動機へバトンを繋いでいく必要があるのですが。
ともかく。本当に初期のころ、「動機」「理由」があるのに動きにくい場合における「期待」の扱い方の話をしていたんですが、最近色々遊んでいると、そもそも「動機」「理由」をシナリオに配置すること自体、当然で自明のことではないことなのかもしれない……という印象を受けました。それがただ質の低下という話でもなく、それまで目立っていた動きにくさの対策として編み出されたひとつの解であり、結果また新たな課題が出てきているのだとしたら、時代の潮流を体感しているというか……長くひとつの遊びに関わってると面白い経験をするもんだな……!
いうてやっぱり、「行動の動機や理由」をよく練ってプレイヤーに渡してくれるシナリオには非常に独特で強力な面白さがある。ので、もし今これらが自明のものではないとしても、人間に駆動力をゆだねる遊びが絶滅することはないだろうと楽観視しています。
ところでわたし、卓遊びを始めて今年で10年超えまして。ヒェ……。長く遊ばせてもらって本当にありがたいとともに、周囲に毒を撒くタイプの古参になっちゃいかんなと真剣に思い始めました。自分の好きなものとか信条は大事にしつつ、変化に対して柔軟でありたいものです。