TRPGで「シナリオの想定」に従いたい人々とロールプレイ | アノマロ
今回はこちらの記事に興味をひかれた思考まとめ。
「シナリオの想定に従いたい人々」というキーワードを目にしたとき、わたしはこの記事とはまた異なるジャンルのプレイヤーを想像したので、これはこれで深掘りすると面白いんじゃないかと思ってまとめてみることにしました。
というのも、最初このタイトルを見て「おっ、わたしのことか?」と思ったんですね。読んでみると自分とはまた違ったので(この記事における「シナリオの想定に従いたい人々」の定義と考察もとてもわかりやすく面白かったです)、じゃあ自分は何なんだ?と。
まず、この記事で触れられている「シナリオ破壊」行為は、わたし個人としてはまあ苦手な部類です。とはいっても、ルーニープレイヤーたちの想定外の行動にシナリオ作者兼ゲームマスターが泣いたり喚いたりしつつ、その場で展開を組み立てる職人芸を披露して奇跡のオチに!という展開のリプレイ動画全盛期に遊び始めたので、その面白さを理解できないわけではありません。むしろ、あの動画群がなければTRPGをやっていなかったかもしれないくらい楽しませてもらったクチです。が、実際に自分が継続して卓遊びをするプレイヤーになり、更にマスタリングをしたりシナリオを作ったりするようになってから振り返ると、「実際に自分の参加してる卓がああだったら、正直楽しさよりもストレスが勝つな……」という感覚になりました。
GMやシナリオ作者は、言わずもがな、プレイヤーにこのシナリオ/演出/世界観を楽しんでほしいと考えて、さまざまな準備に己のリソースを費やしているわけです。シナリオにはそれ自体のトーンがあり、セッションを成立させるためのあらゆる準備は「想定」に基づいて行われる。喩えるならパーティーの準備のようなもので、何をどんなふうに祝うつもりかによって、会場選び、ドレスコード、食事、司会進行、開催時刻設定などの方向性がガラリと変わる。数年前に闘病を終えて旅立った旧友を改めて偲ぶ集まりと、参加しているスポーツチームの優勝を祝う集まりのトーンは当然異なる。そして、主催者はそれらに心を砕いて準備を進めます。なので、いくらパーティーというものが「参加者が楽しめるのが一番よい」とはいっても、静かに思い出を語り合う目的で設けた席で、いきなり珍妙な恰好で登場した参加者に「今からこの会を仮装パーティーにしようぜ」と言われたとき、心底から「楽しそうだね!いいよ!」と言える主催者はだいぶ希少種でしょう(というか、怒っていい案件だと思います)。同様に、百物語などのホラー系イベントにおいて演出を嘲笑したり雰囲気を損なうかたちで騒ぐのも、ホラーを楽しませるために心血を注いだ主催者の努力とホラーを楽しみにきた参加者の体験を台無しにする行為です。ということで、わたし自身はプレイヤーとして、シナリオの想定を意図的に壊す行為を「楽しい」と感じあえてやりたがる人とは距離を置きたい。シナリオのトーンに上手に乗り、せっかく手間ひまかけて準備してもらった舞台を活かして遊びたい/遊んでほしい、と強く意識しているわけです。
……とまあ、これがわたし自身の「シナリオの想定に従いたい」の内訳なのですが……その割に、むしろ記事と正反対のプレイを好むんですね。自分でも あれ? なんでだ? となりながら読んでいました。
ちなみに、記事における「従いたい人々」は、行動宣言をせずにRPのみを行い、シナリオから選択肢を提示されるのを待つことで、極力「シナリオ破壊行為」を避けているのではないか、という話。これの内訳についてもぼんやり考えていたのですが
・破壊されないように行動を先回り提示するマスター/ライター
・破壊を避けるためあまり主体的に行動したくない、提示に従うプレイヤー
・従うプレイヤーに合わせてシナリオや進行をチューニングするマスター/ライター
・従うプレイヤーを想定して作られた環境・シナリオで遊び始めたため、
従うプレイが自明のものとなっているプレイヤー
といった、因果関係のある要素が入り混じっていそうだな、と思っています。
わたし自身はクラシック寄りのプレイヤーですが、本編に入って「○○を探索することができます」「○○を判定することができます」まで一息にGMが提示すると、あ、これはあまり主体的に行動宣言をされると困る形式のシナリオあるいはマスターだな、と認識する。ので、そこからはロールプレイをしつつ提示を待つ姿勢に切り替えたりします(しかもその切り替えはほぼ無意識です。育った水が水なので、このタイプのシナリオだけをずっとプレイしていると主体的な行動がどんどん下手になりそうで怖い……という危機感は覚えますが)。
実際、オンライン環境では、オフラインにもまして「プレイヤーとして行儀がよいか」「周囲と衝突せず・不快にさせず遊べるか」が重要になります。物理的な距離感の制約がないため、高頻度で広範囲の人とセッションができる一方、生身よりも人間同士の接点が絞られるので、齟齬や衝突をおさえて快適に遊ぶには細心の注意が要る。記事にあるように、プレイヤーが自分の行動でシナリオ破壊行為をしてしまうことを回避したいと強く願っているとすれば、この「行儀のよいプレイヤーでなければ、遊ぶ機会が与えられない」という前提からくるものだろう、と個人的に予想しています。つまりこの傾向も時代性というか、遊ぶ者たちを取り巻く環境の変化によって起きている潮流なのかもしれません。
が、それはそれとして。「シナリオの王道をゆきたい/シナリオの想定を大きく外したくない」性質と、「自ら行動や決断を行ってプレイを主体的に進めたい」性質が両立・共存するたぐいの人間がいるんじゃないか、と思うんですね。たとえば、「自分の行動や決断やその結果が、シナリオ想定のうまいやり方・ベストな決着であったことに達成感を覚える」タイプ。まあ、わたしがこれです。なんか言葉にするとあんまり面白くなさそうに聞こえますが、この感覚、好きな人けっこう多いのではないかと。
まず自分の場合、ある程度しっかり練られたフェアなシナリオであれば、その想定をあまり外れないほうがより面白く、より良い展開・エンディングにたどり着けるはず、という期待をしている。その舞台に合うキャラクターとロールプレイを以て、シナリオ側が作り込んだ展開・進行にうまいこと合流できたときに、シナリオに準備された要素たちがいちばん輝くはずだ、と。なので、シナリオの想定など知らん!これが絶対やりたい!!ということは少なく、軽く誘導されれば「オッこっちが想定ルートか。了解了解」と割と素直に従う。実はこの性質、練度の低い単線シナリオやプレイヤーをいじめたがるシナリオとはだいぶ相性悪いんですが、それはさておき。
一方でわたしは、TRPGの「楽しみどころ」「面白さを感じるポイント」が ロールプレイ<行動・判断・進行 なプレイヤーでもある。特にCoCのような自由度の高いものは、「この危機を脱するためにはどうすべきか?」「この異常や謎の理由、真相を知りたい」といった、ごく自然な動機でもって行動を自ら宣言できて、それをシナリオ側が受け止めて進行するという構造が、選択肢型のゲームとの大きな違いであり魅力だと思っています。実際、普通の選択肢型ゲームでは、作中主人公の考えていることが自分と噛み合わず「え、この選択肢どっちも発想なかった。自分ならこうするけどなあ」「主人公はわかったような発言してるけど自分はなんもわからん」となり、没入感を失ってしまうことがままあります。主人公はどこまでも他人の思考をするし、行動や発言は最初から決まっている。せっかくTRPGをやるのだから、自ら行動を考え、決定できるという楽しみを味わいつくしたい……という感覚が強いわけです。
このふたつが同居するタイプの「従いたいプレイヤー」の感覚は、ゲーム的に言えば
「行動の選択肢が表示される前に、自分の頭で考えた行動を宣言したい」
「でもそれが、実際表示される予定の選択肢にバチッとハマってたら気持ちいい」
となります。
TRPGを含め、あらゆるゲームがなんらかの想定の下に作られているわけで、準備された進行/思考/行動と、プレイヤーが自力で考えた進行/思考/行動がぴったりくると、没入感も達成感も段違いです。自分の力で遊んでいる手応えと、プレイヤーのシナリオへの期待/シナリオ側のプレイヤーへの期待が一致していることの安心感がある。
なお、CoCでいうところの「自由度の高い」シナリオの場合、当然ながらプレイ体験におけるプレイヤーとゲームマスターの存在がより大きくなります。自由度が高ければ高いほど、「シナリオ上に準備された選択肢」の存在が少なくなり、流動的かつ抽象的になるため、シナリオの想定に頼ってばかりというわけにはいかない。シナリオの背景や予定や配置された情報要素から、このセッションにおけるよりよい行動、よい着地点をリアルタイムに想定し、ゲームマスターとプレイヤーが駆け引きや読み合いや協力をすることで進行してゆくのは、簡単ではないですが非常に面白い経験だと思います。もちろん、ゲームとして、想定上の解と呼べるものがまったく準備されていないのもまた達成感を削ぐので、ある程度「取りうる手段」「スマートなやりかた」「グッドエンド」はあるし、それを狙い撃ちできたときの手応えもなくなりません。
ちなみに個人的には、シナリオの想定の「わずかに上」をゆけたときが一番楽しいと感じます。想定から大きく外れた別物のような展開にしたいとは思わない、けれどよりスマートに、より的確に事態を解決する行動を取れたら最高。逆に、行動や決断の際、「得た情報から自力でも導き出せる(脳内当てゲームではない)のに、その解にたどり着けなかった/想定できなかった」ときはとても悔しい。が、その悔しさは不快なものではなく、強制的に選択肢が表示され"あてずっぽう"で正解を選んだ時よりも、プレイ経験として「楽しかった」と言えるのではないかと思います。
と、ここまで書いてきて思いましたが、プレイヤーとして遊ぶときの自分は、シナリオやゲームマスターを強く信頼し期待していると同時に、自己肯定感もそこそこ強いから、「主体的に行動したい」「でもシナリオ想定からは外れたくない」と強欲なことを言えるのかもしれません。うーん、恵まれているなあ……。