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驟雨

「うっすらとした地雷」の話

最近、過去10余年のオタクの交流経験の記憶なども遡ったので、一・二次創作などにおける、いわゆる「地雷」とも少し違うけれど厄介な感覚についての話などを。


・ここで書く話か?というのはとりあえず聞こえなかったふり

・気分のアガる話ではないので注意



 

まず、前提として「地雷」とは何か。

語彙の検索を放棄して端的に言うと「自分がとても嫌いな要素」を指している。何で落とし穴でもなく手榴弾でもなく地雷と呼ばれているのかとか考えるのはまた別の機会に。アレルギーって呼べとかそういう話もあったが、それも別の話。


たとえばBLなら、「逆カプ地雷」。登場人物の受け攻めが逆の作品・話題が大嫌いで、それを見てしまおうもんなら一日中気分がもやもやし、理不尽にも作者に文句をつけたくなってしまうくらいに気に入らない……らしい。なおわたしはいわゆるリバやら他カプやら、地雷原を作る側の人間なのでお察しください。

百合における地雷として超有名なものなら、「女性同士の恋愛ものだと思っていたら間に男が入って3Pになる展開」が挙げられる。これはわたしもファッ×ンシットと言いたくなる気持ちはわかるのだが、これらの例において念を押しておきたいのは、こういうことだ。


「地雷とは本人(個人)の感覚にのみ準拠するもので、作者や第三者にとっては許容あるいは歓迎されうる」。誰かにとって刺身や生肉が「地雷」だろうが、わたしにとっては「ご馳走」である(そういう意味ではやはり地雷という表現はあまりうまくないのだろう、クレイモア地雷は万民にとって地雷であり、ご馳走ではない)。


と、前置きしておいて。


 わたし自身には、いわゆる明確な「地雷」はない。が、好みというやつがものすごく明確で、"刺さる・刺さらない"の境界線が油と水なみにパッキリ割れる。そのうえ趣味があまりよろしくないので、世の大半のものは"刺さらない"のだけれど、その環境そのものは大して不満ではない(というか、若干、マイノリティであることを悦んでいる節もある。根がオレオレで目立ちたがりなので)。

 しかし、"刺さらない"ものに囲まれ続けた時、それがしばしば遅効性の毒に変化する、というのは(一人称の経験においても、二人称においても)納得のいくものであるように思う。


 たとえば、同人界隈を俯瞰した印象として、エロという要素は、性愛にさしたる興味も志向性もない人間には"刺さらない"、つまり"興味がない"……というだけでスルーすることができないほど強烈に、界隈から歓迎されている。薄い本においてエロ要素は、当然期待できるもの、あれば誰でも嬉しがるもの、キャッチーなものとして扱われやすい。そんな雰囲気のある空間に、エロは眼中にないが別に嫌悪しているわけではない、という人物が踏み込むと、それはさほど間をおかず「うっすらとした地雷」と化す。

 まずもって、圧倒的大多数が何かの存在を歓迎し、積極的に"市場"で需要と供給にいそしんでいる中で、それに興味のない人間が、自分好みのものを探し出すのはかなり苦労する。目的に到達するまでの旅程において、"市場"から、何度も何度も、自分の求めていないものばかりしつこく差し出されてしまうからだ。違う、自分はそれに興味がない。積極的に嫌悪するというほどでもないけれど、積極的に見る気もない。なのに視界の中央に陣取り続ける。この経験が続くと、倦みはじめる。しかし明確に嫌っている気はないし、たまには「いいな」と思うものもあるから、地雷と呼ぶような存在ではないのだと自分では思っている。しかし、自分の好きなものを探すうえでのノイズになることがあまりにも多すぎる。それに罪はないが端的に言って邪魔なのだ。そして、邪魔され続けることで、薄く、うすーく、忌避の感情が雪のように積もっていく。が、それを邪魔だ、というにはあまりに周囲が歓迎ムードであり市場が大きく、それがじわじわ自分の中で地雷化していることを誰かに訴えにくい。


 わたしの個人的な経験でいえば、それは春の服だ。

 わたしはいついかなるときも自分が着たいものを着たい。自分なりの季節感の基準はあるが、世間のスタンダードとはだいぶんズレている。ペールトーン、ゆったり、軽やか、ガーリッシュ、透け感・抜け感、くしゅくしゅ、シフォン。ああ?おととい着やがってください(誤字が面白かったので放置)。

 とはいえ、わたしはそれを好んで着る個々人にマイナス感情を向けてはいない。フェミニン系で非常にセンスのよい職場のおねえさまに、季節ごとに心からの賛辞を投げまくって若干キモがられているくらいだ。が、服売り場にいってパステルに埋め尽くされたフロアを見た時、わたしはうっすらと、向かう先のない瞋恚を抱く。自分の愛するデザインと色と質感が市場から駆逐された悲しみと苛立ちのフィルタがかかった目でみると、ずらりと並んだ春の新作が「春といえばこうでしょ?」という顔でこっちを見ているように思えてくる。個々のアイテムを見れば好きなものもあるし、それを着る個々人にもの思うこともないのだが、まさに我が世の春とばかり"市場"を埋め尽くす、総体としての春物には淡い憎しみを覚える。なんというか季節性のバッドトリップの様相を呈している———そしてヨージヤ○モトあたりに逃げ込むのだ。



 この地雷が、趣味の世界において"刺さらないもの"の方が圧倒的に多いタイプの人のうちに埋まっているのをわたしは「受け手」の側でも何度も経験している。


 十数年1つの作品で小説の二次創作活動をしている妖怪になりつつあるのだけれど、作品の傾向ゆえか、いただくご感想にも特徴がある。"刺さった"人から、その人自身の人生観や信念すらにじんだ、気合の入ったご感想を頂戴することが多い。そりゃもう、少々メンタルがやられたときに読み返しで元気になるくらいに内容の詰まった、力強くありがたいメッセージで、これ持って墓に入れねぇかなーなどと思っている。シナリオやリプレイ作品についても類似の傾向がある。

 が、そのなかには、差出人から「うっすらとした地雷」の訴えが添えられていることが結構頻繁にある。

 はじめまして、のメッセージのなかに「あなたの作品は他とは違って」に類する言い回しが出てくると、ああ、どうしようかな、と思う。「この作品を書く人ならば、きっと、自分のこの"公言すべきではないうっすらとした地雷"をわかってくれるだろう」という声なき声を聞くのは、こちらの邪推なのかもしれない。けれど、誰かの作品に対して初めてメッセージを送る決意をし、その面白さや良かった点を伝えるためにとったのだろう筆を、つい別人の、それも気に入らない作品の話題に寄り道させてしまうくらいに、それは差出人にとっての毒なのだ。


何度、「ほかのAを扱った作品はどれもこれもXXだった」「AはXXという解釈が当たり前という風潮で、XXの作品ばかりがあふれている」というひとことを目撃したかわからない。


 差出人にとって、「XXがいかに自分にとってのノイズであったか」をわたしに訴えるこ

とは、決して本来の目的ではない。けれど同時に、XXを感じさせない作品の作り手であるわたしは、苛立ちを共有できる同志としての期待値が高い。うっすらとした地雷は、明確な地雷と違って、抱えている本人がそれに対する負の感情を抑圧しがちだ。別に嫌いじゃない、ただ"刺さらない"だけ。けれど、つい、好みの作品を生んでいる(=XXにはかかわりのない)眼前の作者に、XXの話を始めてしまう。

 「XXの作品は世間的には人気だが内容が浅く薄い、一方あなたの作品は……」

 世間には他者と比較評価されてぐっとくるタイプの人もいるので、純粋に誉めているつもりでそう言ったのかもしれない。が、少なくともわたしは過去何度か、このテの言葉への返答に窮し、結局「XXには詳しくないですがいい作品もありますよ」などとお茶を濁してきた。

 なんせ、わたしは自作や自分の思考や好みについては意見を言えるが、XXがまさに守備範囲外で、ゆえにXXを批評する土俵にすら立っていないのだ。服を例にするなら、わたしのちょっとアレなファッションZZを気に入って声をかけてくれた人に「近頃の着こなしはどれもXX前提ですね」「どの雑誌を見てもXX一強ですよ」と言われるようなものだ。すまない、好みがZZだから、XXが載ってるような雑誌とか買ってない……。

 さて、この人はわたしとZZの話をしたかったのか、それともZZではなく、XXという"うっすらとした地雷"についての話をしたかったのか。実際、XXの需要が高く一般的であればあるほど、実は後者だ、というケースも少なくないのだろう。それくらい、その人にとってXXが無自覚・遅効性の猛毒になっている可能性は高いと感じる。


 ところで、こういった話題の際、「自分はその状況が辛い、恨めしい」という、"自覚ある"一言が添えられていると、かなりほっとする。XXそのものではなく、その人の心のほうに焦点が当たるからだ。XXが話の主眼となっている限り、XXから遠い自分からしてみれば、何を言うべき立場にもない。しかし、それをこのように感じる、という話題なら、主役は会話相手の心である。「XXについては門外漢だが、興味のないモノに囲まれて四方から圧迫される環境に苛立つあなたの気持ちは、自分にも覚えがある」と言いやすい。


 わたしはエグみのある果物が好きだ。が、それを知った誰かに、フルーツトマトが主流になっている今のトマト市場について何か言いたいことはないか、と言われると「農家も甘みを増す努力をしてるんでしょうね」などと、どこ向けだよそれ、みたいなコメントをすることになる。おそらく相手は、わたしが今のトマト市場に批判を加えることを期待している(どうしてわざわざ、好みの味の話で盛り上がれるであろう相手に、互いに好まないと思われるものの話をあえて振ってきているか。いやぁ、フルーツトマトいいですよね!今のスーパーの品ぞろえ最高ですね!という返答を決して望んでいないことは、流石にわかる)。

 しかし、それを期待されたにしても、答える側としてはよく知らないものを無闇に低評価するわけにはいかない。農家への思い入れもなく、トマトの市場動向などさっぱり知らない人間が適切な意見を出せるわけもないので、とにかく誰のこともサゲないで穏便に回答することに専念する。

 しかしこれが「自分は昔ながらの青臭いトマトが大好きなので、フルーツトマトしか置いていない青果売り場をみると悔しくて歯ぎしりしてしまう」という訴えなら別だ。「わかります、その気持ち。わたしもグレープフルーツからエグみが消えて泣いております。あのエグみを求めてグレープフルーツを買ってるのに!」と熱い握手をするだろう。

 つまり、相手にとってどうやらうっすらと地雷っぽい「相手でも自分でもない"誰か・何か"が焦点の」話題よりも、「相手自身の心の動きが焦点となっている」話題の方が、ずっと受け取りがスムースなのだ(少なくとも、わたしは)。これが、いわゆるアサーティブコミュニケーションというやつだろうか。

「XXは浅薄だ」ではなく「自分はXXが浅薄に思えて好きではない」の違いはけっこう大きい。なるほどXXは浅薄ですよね、と口にするより、なるほどあなたはXXがちょっと嫌いなんですね、と口にする方が、自分のポリシーや倫理に対してかなり負荷が低い。うーん、お分かりいただけるだろうか……。


 

さて。

わたしの思う、「うっすらとした地雷」のやっかいさは、以下の3点で説明できる。


1.それを地雷だと言いにくい、あるいは本人にも自覚がない。

2.毒抜き・バランサーになれる相手が限られている。

3.主体が1.によって避けたことを2.に代弁させる

 (または2.が勝手に肩代わりしようとする)流れになる場合がある。


 3.については特殊かもしれない。わたしが3の環境に陥るのは2の役割を長く担ってきたためで、オートで3を発動させてしまいがちだ。そもそも私的な雑談におけるファクトチェックや他者批判にそこまで過敏にならんでも、うなずいておけばいいじゃないという向きもあろうが、ここに関しては経験則からくる個人的なポリシーになるので割愛。


 それはさておき、やり切れないのは1だ。誰かや何かに非があるわけではないにもかかわらず、"市場"の占有率に差があると、「消極的な地雷化」は少なからず起きてしまう。……よく考えたら、日本語にはこの感情にぴったりの表現があるんだった。「食傷」だ。


 それが中心となっている作品群やコミュニティからうまく距離を取ること、あるいは自分が触れる作品や人の多様性を確保して市場バランスを保つことができるとベストだろう。しかしなかなか簡単ではない。ただ、誰にだって、興味はないが別に嫌悪していなかったものを大量に押し付けられ、うっすら厭になっていく事象には多かれ少なかれ心当たりがある。ゆえに、食傷を「感じるべきでない、感じてはならないもの」だとは思うまい。だから、もう少し抑圧から解放されてもよいように思う。

 やっぱこの状況ムリ、と思ったときに周囲に解毒役がいるのは僥倖だ。解毒が必要なときは、「これは自分の愚痴なんだけれど」と、たったひとこと前置きするだけで、発信者も受信者もずいぶん楽になれるんじゃないかなと思う。



 



ところで、食傷という単語を辞書でひいたら、柳多留が出典らしい面白い句が載っていた。


「邯鄲の里にすむ獏食傷し」


……ゴグ=フールさんとか、そろそろ狂気に食傷したりしないんですかね?

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