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驟雨

十戒と二十則と小説とゲーム

更新日:2020年5月23日



 これを忠実に守った「探偵(推理)小説」は「小説」というジャンルとは根本から異なるのではないか?とふと思ってつらつらと考えていき、そして「ゲーム」というものに改めてたどり着いたよという話。



 

 まず、「十戒」とか「二十則」ってなんや、という方は以下をどうぞ。


 ヴァン・ダインの二十則(Wikipedia)  で、これらが挙げるレギュレーションを自己解釈で大雑把に分類したのが以下。

 (複数にかかっていると感じたものもあるので、重複させています) ●偶然・非現実的・不確定的・ファンタジックな要素を排する  K:2,4,5,6 D:5,8,13,14,17,19

陳腐なギミック、同ギミック多用を排する  K:3 D:1,20 叙述トリックを排する(文章によって読者を欺かない)  K:7,8,9,10 D:2,4,9,15

デウス・エクス・マキナを排する  K:6 D:10,18,20

トリックとその解決にかかわらない文学的表現やロマンス要素を排する  D:3,16

シチュエーション・動機・登場人物の属性/役割を限定する  D:6,7,9,10,11,12,13,17,19

 

 読んでいくと、「文字で記述される」ことは、探偵「小説」にとっては必要条件ではない、と理解することになり、そこになんともいえない不思議な感覚を覚えます。  これ、作家が読者に情報を提示するための環境・時間・五感の体験型装置があればいいのであって、状況や展開を"文字で表現する"ことにはいっさいのメリットがないんですよね。わかりやすいところでいうと、叙述トリックのように「文章で語ること自体がトリックの成立条件である状態」を排し、かつ「文学的表現やロマンス要素など、推理にかかわらない描写・構成」を排している。  この十戒と二十則の掲げる理想的な/王道の探偵小説は「文章という媒体だからできること」や「文章によって感覚・情動に訴えること」を不要なもの、邪道なものとみなしています。たまたま文章というツールを使っているために「小説」と名前がついているだけであって、この十戒と二十則の目指しているものそれ自体は「小説としての良作」ではないのは明白です。  では、これらの決まりごとが目指しているのは何か?  それは、読者が文章を読みながら解決のためのすべての材料や可能性を集められる"フェアな"推理環境、謎解き以外に注目すべきところを作らない"快適な"推理環境です。また、書き手の文章力に左右されず読者を熱中させやすい属性や状況を示し、他のジャンルと重複する点を極力排除して推理以外の要素に土俵を広げさせず、更には「使い古された」「陳腐な」例をあらかじめ示してそれらを避けるよう誘導している。つまり、読者に「推理をストレスなく楽しむための装置」と「推理の面白さの質」を提供する、という目的にすべてを捧げているといえます。  逆の見方をすれば、これを守って小説を書くということは、「小説(文字媒体のフィクションの物語)として面白いものを書く」というアプローチを排除し続けるということになります。この原則は【推理の】楽しみを提供するための手法であって【小説を読む】楽しみを提供するための手法ではない。推理娯楽作品における文字媒体の不便さ・至らなさを避ける忠告はあっても、文字を扱うことそのものを推理の快楽にとってのプラスに変えるところまでは考慮されていません。むしろ、「文字媒体の小説で提供されるからこそ可能な面白さ」というものは、これらの原則では邪道の扱いを受けています。この点、趣味で小説を長年読み書きしてきたわたしは大人げなくもかなり反抗心をおぼえるのですが、それは今日ミステリと呼ばれている作品群が担ってくれているので、留飲をさげることにして閑話休題。  さて、さきほどわたしはこのレギュレーションを「フェアで快適な環境づくりを目的とした」ものだと書きましたが、これ、ストーリーと推理要素を併せ持つTRPGにおいてシナリオとマスタリングに要求されることに非常に似ています。つまり、ものすごくゲームっぽい。  特にヴァン・ダインの二十則に顕著だと思うのですが、彼は探偵小説の作者を、推理におけるシナリオライターにしてゲームマスター、兼、挑戦を受けて立つボスプレイヤーのように見ています。ゆえに、たとえば「与えられた情報のなかでできる推理では解けないような"ペテン"をしてはならない」と言うのです。実際、ゲームマスターがプレイヤーに対して必須技能を告げなかったり、作中の情報から解決手段を得ることができないようなシナリオだったり、予測不能なデストラップがあったりすると、TRPGプレイヤーの多くに「フェアじゃない」「面白くない」と指摘されるでしょう。この探偵小説の鉄則はまさに、そうならないための忠告です。そういう意味では、「小説」としての十戒・二十則には異議のあるわたしも、「ゲーム」としてなら云いたいことは非常によくわかる。つまるところ、プレイヤーを楽しませるためには公平さを欠いてはならず、そのうえで手応えと考え甲斐のある命題と展開を必要とする、という……すごく砕けた表現をするなら、 「それが許されるんなら何でもアリじゃね?」 「頑張って探索とか交渉とか推理した意味は?」 「えーそんなの聞いてないんですけど!」 ……と思われるようなものを作らないようにね、と。アイタタタ耳が痛い。 こう考えると、探偵小説とTRPGはともに、ある人間がルールとなり、舞台装置や登場人物や物語を準備したうえで、その中で(競い合って)遊ぶという共通点があるんですね。CoCのような協力型システムにおいても、PCを謎や危難に放り込み、そこから生き延びて真実を掴むことを簡単に成させない、という意味ではKPはメタなラスボスですし。え?ダイスの女神?あれは裏ボスです。  ところで、こういった「フェアで正統派な」作品に飽食してきたときに、この「型」を上手に破った作品に触れると楽しいのも事実なんですよねえ。そのあたり、CoCでもPvPとか秘匿HOとか情緒系とか、変わり種が流行っているのと関係があるのかな。

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