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「風ノ旅ビト」壁打ち感想(過去記事移植)

  • 執筆者の写真: 驟雨
    驟雨
  • 9月7日
  • 読了時間: 21分

わたしの愛するゲームタイトルについて、昔書いた1万字くらいの感想を移植しにきました。

というか移植を下書きに放り込んでうっかり忘れていた。


販売はこちら。

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●ストーリー構成とステージ構造について


 壁画から予想される作中設定についてはあまり触れていません。旅ビト自身が体験する展開について。

 言葉で表現すると陳腐すぎて絶望しますが、これって人生の始まりから終わりまでの旅よな、という話。

 あとステージ名はわたしの独断と偏見による命名です。


第一ステージ:ぼっち砂漠

 全然前情報なしで突然ぽつーんと砂漠の真ん中に座っている。人間、生まれた時にこの世界の説明など受けられないから当然だな!とりあえず歩く。なんか知らんけど山があってそっちにいくっぽい。生まれてすぐの時点では人生に明確な目的地もなければ終着点についての知識もない。死についてどころか、自分が生きていることについても自覚がない。

 何やかんやで自分が飛べたりとか、最初の壁画とか、最初のカーチャン(でかい白ビトさん)からの啓示とかで雰囲気を掴む。世界の一端をちょっと理解する。多分幼子の体感というか、特に、わー飛べる!楽しい!マフラー伸びる!成長した!は幼児的全能感ってやつに近いのかなと思う。

 ちらっと他者の存在が登場したあたりで次のステージへ。

第二ステージ:じゅうたん橋

 運が良ければ、ここで初めて対等かつ偶然の「他人」に出会う。ビトさんは生まれ落ちた時に親や家族を持っていないけど、どっちにしろ子供の頃の親兄弟はいわば半分自分みたいな扱いで、全く別個の存在(何考えてるのかとかどういう経験をしてきたのかとかがさっぱりわからない相手)としての他人に初めて遭うって経験は、家族がいても同じかなと。

 そして言語。これは後述するけど、ビトさんが他人とあえて非常に限られたコミュニケーションしかできないように作られているのが本当にGJだと思う。鳴くかうろうろするか近づくかしかない。細かい意思疎通など不能、何か言ってるけどさっぱりわからん。くっついて歩いたり会話っぽく鳴き交わしたりで、好意的なんだなーくらい。でもこれまでぼっちでうろついていたので嬉しい。特に、同行ビトさんが仕掛けとかアイテムを教えてくれようとしたりすると、たまらなく嬉しいんじゃなかろうか。

 ビトさんの飛翔能力の設定についての邪推も後述。とりあえず、同行ビトさんに手伝ってもらうと飛びやすいことがわかる。


第三ステージ:桜でんぶ砂漠

 踏み込んだ瞬間にエメラルド色の空に桜色の砂、美しいんだけどつい桜でんぶを連想してしまう…ってのは置いといて。このステージでは布生物に乗せてもらえる。2周め以降だと、布生物が捕まっていた謎の檻みたいなものが、過去文明の動力装置やら兵器やらだってことがわかるんですが、ここではビトさん自身の体験をベースに。

 ここでも成長アイテムと壁画などの世界観情報収集、同行ビトさんがいれば親交を深めたりもできる。広々しているので迷子になりやすいけどそれもまた一興という感じ? ステージ前半を見る限り、無知ゆえにのびのびしているというか、前途にあまり不穏な気配がない。人間でいうと、まだ何も心配ごとのない、他者との交流や世界の広さを満喫している時代なのかな。というところから、まだちょっと動いている文明都市の名残みたいなものが登場して一気に雲行きが怪しくなる。この先ゆく路には困難なり危機なりがあるだろうことをぼんやりと意識する場面。

 ところで、運が良ければここで光るシンボルの生成シーンを目撃できる。山の頂上から彗星が飛んできて着陸してシンボルになるやつですが、これと寺院とエンディングをつなげるとどう解釈すべきか迷うところ。


第四ステージ:砂スキー

 個人的には一番ハイになれる。愉しい。たぶん人間でいう青春期なんだろうなあ…と。 追い風に背中を押されて疾走していく、シンボルは結構取り逃すんだけど後戻りができない。この後戻りできなさとテンションあがるスピード感が何とも若い。

 そして、たぶん作中最高の映像美であろう十数秒もこのステージ。あれで涙腺のネジをいきなりふっ飛ばされた(そしてネジが返ってこない)。なおこの名シーン、突き当たりでは立ち止まれるものの、水道橋みたいなものの中を通っている瞬間は強制滑走中で立ち止まれない。あれはわざとそういう演出にしたのかなと思う。短く、もう一回見たくても戻れないからこそ惜しく、より美しく、2周め以降をやろうとする動機になる(エンディングの解釈的にこれ重要)。そして若い旅ビトがあれを目撃するというのは、「世界はうつくしい」という感銘の体感的理解というか、人生において自分の感受性の最大値をひきあげるような経験を示唆しているような気もする。

 そんな勢いのままへ地下道へ突入、音楽も光景も一変したところで壁画とカーチャンの啓示。なんかあるよ感。


第五ステージ:深海

 明らかに不穏な地下道。だが昆布である。最初は昆布っぽいwwとか笑いながら言ってたけど、クラゲ出てきてマジ昆布だった!と思ったりした。ともかく、地下道はそれまでの解放的なだだっ広さから一変、静かで圧迫感のあるひんやりした雰囲気になる。ただ、音楽や情景は美しいと同時に色気というか、しっとりした官能的な方向に。同時に、これまでの無限の選択肢がある光景、「どこへ行ってもいい」感じが薄れて、進むべき路のようなものが提示される。先に待ち受けているものが困難や危険であることを予想しながら、しかしそれまでの勢いや自由のかわりに色気をまとって否応なく深海を歩く…と考えると、人生における苦難の示唆、そしてある程度"大人"として生きる時代を示しているように思う。

 あと、それまでの壁画回収や周囲の環境から、世界の仕組みや過去をより理解すると同時に、抗いがたく恐ろしい災厄や悲惨があった/ありうることを、ビトの視点としても体感できるようになってるのかな。

 また、このステージで同行者がいると、逆境において誰かと同道することがいかに心強いか、これでもかというほど身に染みて感じられる。同行者が襲われることで、自分が攻撃されるのと勝るとも劣らない恐怖や痛ましさ、罪悪感も味わう。道連れビトさんが吹っ飛ばされてマフラーちぎられても、反撃できるわけでも回復できるわけでもなく、鳴くか周囲をうろうろするしかできないのだけども、駆け寄らずにはいられない心境になる。旅ビトの「無力さ」と「制限されたコミュニケーション」はこの場面でもよくできてるなあと思う。

 ステージのラスト、ずらりと並んだ墓石らしきものに過去の悲惨を噛みしめつつカーチャンの啓示。赤ビトさんの経歴というか誕生の経緯が一応ここで明示される。これも後程邪推します。


第六ステージ:寺院

 旅ビトのイメージがよく巡礼といわれるゆえんかな?というダンジョンデザイン。

 既出壁画の起動でぐいぐい水位があがり、シンボルに満たされた水中にいると飛翔力は自動回復。しかも布生物が手助けしてくれる。確かに、地下道事件からのこの寺院らしき建物は過去のビトさんたちの鎮魂・祈りのためのものに思える。

 これも暗喩としてとらえると…表現が難しいのだけれど、ある程度生きてきた人間がふいに体感理解するある感覚のことかなあ、と。「自分は自分の力や意思だけで生きているのではなく、過去も含めた世界や他の存在に生かされている」「自分の存在は過去・祖先から連綿とつながっているなにものかの一部である」ということと、自分がそうであることの感動が、字面でなく感覚としてわかる。この感覚を得ると、見知らぬもの、過去のもの、遠いものへの敬意や哀惜や愛をより感じやすくなる。世界や時間軸における自分の存在を俯瞰で見ることができるようになり、一方で、自分の経験や来歴に深い愛着をおぼえる、というか…うーんやっぱり難しいな。

 ひとことでまとめるなら、自他の生や世界に対する畏敬と愛着をリアルに感じるのが寺院ステージなのかなと。寺院全体に、こう、おごそかでありつつ自分の存在を肯定されてるような雰囲気ありませんか。ないですか。

 そしてここでカーチャンによるラストの啓示。光るシンボルを先人たちのたましいととらえるのであれば、啓示に入る直前にそれが大量に降ってきてプレイヤービトに吸収される演出=祀られた死者たちの何かがビトさんに影響を与えてるはずなんだけど、具体的に何かが起きるわけではないのでよくわからない。過去の他者、祖先たちと今ここにいる自分の存在を結びつける表現……かな?

 啓示そのものについては、これだけで1ステージ分くらい喋りたくなる。道行きをはじめから、同行者がいた場合はちゃんとそれを反映して、一面の壁画を視点ぐるりで見せてくれるあれ。どの場面でも音楽の合わせ方が神がかってるけど、特にこの場面は、この曲だけでせっかく締めた涙腺のネジがまたどっかへすっ飛んでいくね!

 これ以前のステージでは、啓示は歴史の説明というか、自分のビトさんからみれば遠景俯瞰の物語であったものが、ラストの啓示では自分そのものを語られる展開になっている。おのれのたどってきた旅路を今一度反芻してから、啓示が「過去」から「未来」へ時間軸をうつし、目標である雪山への厳しい道のりを告げられる。予言的。最初のステージでは、え?山?何か遠くに見えてるけどあれって関係あるの?という感じで始まったとしても、この時点では、ああ、あの頂上を目指さなくちゃならないんだ、自分はそういう宿命なんだな、という感覚に変わっているんじゃなかろうか。何というか、無意識の覚悟が済んでいるというか。

 で、やっぱり言語化するとあまりに陳腐すぎて頭抱えるけど、これは一個のいきものによる「死」への旅路の似姿だろうと理解してるので、ここでビトさんは死に向かう自分に完全に自覚的になるんだと思う。到着地に自分の決定権はなく生まれると同時に定まっていて、ただそこへ至る道中を深く噛みしめながらいきなさい、という啓示を受けてるんだなと。いつか死ぬということは、つまりそれまでの時間を生きることだ、という。

 さて、自分の生を振り返ってそれをいつくしみつつ、厳しい道中と先に待つ終わりを覚悟をしつつ、次のステージへGO。


第七ステージ:雪山

 壁画の予告通り、ひとりでいるとすぐマフラー凍って飛べなくなるわ、兵器はうろうろしてるわ吹雪で吹っ飛ばされるわで、四苦八苦な旅路。見目はたいへん美しいけど、さびしいし厳しいのもこれまで以上。

 邪推すると、いきものの「老い」を色んなところで示唆しているんじゃないかなと思ってる。「若さ」、つまり坂下り&追い風ステージの逆、向かい風の中を登りで進まにゃならん、という演出がひとつ。そして、吹雪やマフラー凍結による行動マイナス補正がずーっと入っているのもひとつ。今まで当たり前にできていたことがどんどんできなくなってゆく。思うように飛べないし歩けない、何度も押し返されながら必死になって前進する。しかもここ、これまでのステージにはまんべんなくあった光るシンボル、つまり「成長」の要素がない。マフラーちぎられたらちぎられっぱなし。このあたりも、刻々と死に向かっているいきものの老いの体感を表現してるんじゃないかと。

 そんな中で、同行ビトさんがいる場合は、ぴったりくっついたり鳴き交わしでマフラー凍結解除できるし…っていうか見た目も雪山だしそりゃもう寄り添いたくなるなる。ついでに、飛翔力の消費速度が速いので、鳴き交わしで長時間飛ぼうと思うと技術的な熟達が必要、というのもまた味わい深い。最初の頃からここまでずっと一緒の道連れさんだった場合なんか、色んなところを一緒に踏破(飛破?)してるので、だいぶ「相棒」感あるし。

 んで吹雪の雪山中腹へ。絶望感半端ない。まずマフラーが暴風でちぎられて完全に消失。さらに、それまでは見えていた目的地:頂上が雲に覆われて視認できなくなる。まともに歩けなくなる。鳴き交わしの声のとどく範囲が狭まり声が小さくなっていくのが目でも耳でも容赦なくわかる。同行者がとうとう倒れ、自分も膝をつく(ちなみに何回プレイしても、倒れるタイミングは同行ビトさんの方が早いので、これも演出の一部なんだろうな)。まさしく道半ばにして力尽きるとしかいいようがない。連れの倒れるのを見守るしかない一方、目的地は見えもしないという……もしここで終了だったら実に鬱まっしぐらだと思う。現実の世界ではこれに近い形で死を迎える人ってのも少なくないんだろうなーとか思って余計に落ち込む。


最終ステージ:天上

 カーチャンたち出現。でかい。多い。力尽きた旅ビトを覗き込んで念力で持ち上げる(情緒のない言い方で失礼)。ここらへんも死生観とか魂の救済とかにからめて解釈しがいのある内容だと思うんだけど今回は省略。

 一度はちぎれ飛んだマフラーがMAXまで伸び、ビトさんが意識を取り戻して……というか、たぶん肉体の死とともに不自由さが消えて、身軽なたましいだけの状態になった感じか。そこから一直線に雲のトンネルを飛んで兵器を軽々躱しながら(ただし、この場面は兵器に狙われてる感じはあまりしないのだけれど)加速。直前までが減衰と不自由と悲痛のフルコンボだっただけに、この最大値復活&急加速はそのあとにくる解放とかカタルシスをはっきり予感させる。くるぞくるぞーという「溜め」の演出だろうなあ。

 そしてキター!なステージ到着。加速しきって雲を抜けた瞬間、絶景がいきなり目の前に出現するのと、体重と推進力が消えて空中にふわっと浮くのと、一瞬無音になってから音楽が切り替わる瞬間のハメっぷりがたまらん。ああ今自分は自由だ、たどり着いたんだ、という感じ。実際は雪山で死んでるのはほぼ間違いない(EDのカット的にも……)んだけど、ここでもう一度念を押すように、「世界はうつくしい」を体現する光景と、自分の意思と力で自由に身体を動かせる歓びと、幸福な偶然に恵まれれば同行者との道ゆきの楽しさ、すべてを凝縮して再提示される。これまでと同じ視点で解釈するなら、この旅程/人生は楽しかったか、旅をして/生き切ってよかったと思うか、ということを正面から問われてるんじゃないかと思う。走馬灯は死の前らしいのでちょっと違うけど、死を得た瞬間、自由になったたましいに生のあらゆる歓びが一気に溢れかえるって感じか。

 走馬灯といえば、天上ステージの構造&登場する布生物が、今までのステージを順になぞらえてあることについ最近まで気づかなんだ……言われてみれば、橋通り過ぎて、砂スキーして、昆布につっこんで、クラゲやらクジラ(サメ?)のいる水から上がって、滝の段差を昇って、最後は路になってるとこを飛んで上昇するわ……。壁画では絵で反芻したけど、ここでは実体験コミで反芻させてくれてるのか。察しが悪い自分に絶望した。

 同行者とここまでこれた場合、個人的な体感としては、じゃれあいながら頂上へ向かうことが多い気がする。めっちゃ寄り道するし砂遊びするしハートも描くよ。これでもかといちゃいちゃするよ。最初の方のステージで他のビトさんと遭遇したときもめっちゃ絡むし寄り道もするけど、このステージでのそれは一周回ったうえでの行動だと思うと何ともいえない。すぐそこに永遠の別れが迫っております、次も同道することはきっとないでしょう、ていうのをお互い(たぶん初回プレイでも)察してるとこがある。今までおつきあいありがとう、楽しかったねえ、名残惜しいねえ、という万感を篭めたしばしの交流ののち、マフラーもすっかりどっかへいってしまったビトさんたちが光へ歩み去り、後ろ姿も遠く薄くなって掻き消え、真っ白な画面で視界が焼きつけを起こし、本当の意味でビトさんの旅=生が終わったところでエンディングへ。


エンディング:辞世の唄

 あ、これは動画コメントとか考察ブログの歌詞を見てからの解釈ですよっと。

 エンディングはこの曲をバックに、来た路を逆に遡っていく映像が続く。歌詞の内容はわからなくても死を迎えていることは明白なんだけど、歌詞もまた、生の時間は限られていることと死は等しく訪れること、死に向かう旅とその根底に流れる孤独、あたりに触れているらしい。個人的にニクいなあと思うのはフランス語(ジャンヌ・ダルクのことばからの引用なのかな?)の歌詞に登場する「憐れまないで、わたしはこのために生まれてきた」というくだり。「このため」の内容をうまく説明できないのに、プレイを終えたあと「このため」という指示語が指しているなにものかが、体感としてわかってしまうところ。言語化ほぼ不可能な感覚を、本当に言語化しないままで的確に丁寧にプレイヤーに伝えきっていると思う。小説とかで、本来言語ではない情動や感覚を言語をつかって相手に体感させようとしてる字書きとしては、ぐうの音も出ない。

 閑話休題。はっきりと「死」を意識した内容の曲が流れつつ辿ってきた旅路を遡って、まさに今旅をしている者たちを遙か眼下に眺め、ラストはひとりきりで砂漠まで戻って着陸、しらしら夜が明けて「はじめから」の光景。

 無限ループこわい!!!

 ……と最初は思ったんですが、何度か周回していくと、なんとなく自分なりの理解ができた。まず、1回戻ってくると、鳴き声の紋(人間にならって声紋とでもいいますか)が別のものに変化する。つまりストレートな転生ではなく、別の個体として旅路のはじまりに立つ。あと、周回すればステージはだいたい憶えるけど、特にランダムマッチングというシステム上、同じ人とプレイすることはほぼない。だからこれは正統派ループのような「転生・人生やりなおし」の構造じゃない。ただ、このものがたりを最初から最後まで経験したことのあるプレイヤーとして、次の新しい1周に出てゆく。あえていうなら、自分が人生を終えた後に「一度生きて死んだ経験をした者」として、普遍的な問いを受けているんじゃないかと思う。"あなたはまたこの短い旅に出たいと思うか?"と。


●ゲームシステムの話

 今度は、ストーリーや特定のステージについてではない部分での邪推とか妄想とか。


コミュニケーションと非言語の制約

 このゲームのキャッチコピーは「ことばは、いらない。」だったと記憶してるんだけど(ウロなんでちょっと違うかも)、実際システム上、「1度に遭遇できるのは1名のみ」「チャット機能などのコミュニケーションツールは一切なし」「他プレイヤーとの遭遇は強制ランダムで待ち合わせ不可」「相手のIDはプレイ終了まで開示されない」という大きな制限がある。作中のオンラインプレイは製作者からもファンからも超・推奨されているにもかかわらず、だ。普通のオンラインゲームだったらこの時点で多分やる人がいなくなる。だいたい、明確に協力できる内容も「飛翔力の補助」のみ。システム上、プレイアブルキャラクターには回復手段も攻撃手段も存在せず、死亡によるゲームオーバーすらないので、他のプレイヤーと一緒に何かを行う"必要"はほぼゼロ

 が、旅ビトのファンはほぼ100%、未プレイの人に「ぜひオンラインでプレイしてほしい」と薦める。ちなみにわたしはゲームの操作が死ぬほど下手というのもあって、自分の行動が他人に(あるいは他人の行動が自分に)影響するオンゲのシステムがすごく苦手でことごとく避けているのだけど、旅ビトに関しては、オンラインで他プレイヤーと遭遇するなんてことをまったく知らないまま、1周してから知った。え、同行したビトさん、中に人いたの。マジか。

 で、そんな「騙されプレイヤー」なわたしももれなくステマ仲間入り。これは絶対にオンラインでやるべきだ。協力の必要性などなく、元々の知人と一緒にプレイもできず、誰だか知らないし会話もできないし国籍すら終わるまでナゾのままの相手と偶然出会い、遭遇しても割とスルーされたり途中ではぐれて再会できなかったり、ときどきビトさんがえらい高いところで座禅組んだまま沈黙してて、こりゃ寝落ちてるかトイレ行ってんな、って勝手に解釈して先に進むようなシステムだからこそ、オンラインでやるべきだ。

 なんでかって、もっと複雑なコミュニケーションができる機能とか協力する必要性があったとしたら、全然見知らぬ誰か、しかも国籍も定かでない相手とあえて喋ろうとするか?ってところに尽きる。

 結局、高度な機能や必要性があるほど、元々コミュニケーションできてる相手以外とは交流しにくくなってくんだよね。

 ビトさんは言語による挨拶も自己紹介もできない。ここにアイテムあるよとかちょっと席外しますとも言えず、一度はぐれたら自分の足で探して、それでもだめなら諦めるしかないし、相手がマフラー引きちぎられようとも回復してあげられるわけじゃない。ただ、近寄っていてぽわぽわ鳴くだけ。ついておいでと言われているのか、先行くねーバイバーイ!なのかも不明。だからこそ、その誰かが気にかけてくれる(ように見える)だけでホロッとくるし、相手がどこの国のどちら様だろうが、どうせ鳴いてうろうろする以外のことができないから特に身構えたり腰が引けることもない。クリアに際して相手の協力が必要ないから、相手が下手でも怒る理由もないし、相手が助けてくれてもくれなくてもいい。邪魔・迷惑になるという状況すら発生しない。ただ、相手が自分を気にかけて駆け寄ってきてくれたり、自分が相手にアイテムの場所とか隠し要素を伝えてなんかお礼を言われたような気がするときに、あ、意思が通じたっぽい、と感じたり、ありがたかったり嬉しかったりする「だけ」

 本当に限られたコミュニケーションしかできないシステムだからこそ、広い砂漠で誰かを見つけたとき、あっ誰かいる!という純粋な歓びを失わないままでいられる。どこの誰だか知らないしもしかしたら日本語も通じないかもしれない相手を、何もしてあげられないなりに労わろうとしたり、言いたいことを必死に伝えようとする。マッチングが偶然で国籍すら予想できないからこそ、ちょっと仲良くなっただけで嬉しい。相手と自分は初対面で通話もできない、何があってもおかしくない、置いていかれても事情があったんだろう、一緒にきてくれたらおつきあいどうもありがとう、となる。そして、ラストステージまでご一緒したビトさんと砂にハート半分ずつ描いたりして愛と感謝を伝えあっても、おそらくそのビトさんと二度と会うことはない。何度も何度も見知らぬ他人と出会っては別れ、運がよければちょっと意思疎通できたような気がしてはしゃぎ、はぐれるとさびしく、でもひとりでも進んではゆける。運よく長く(といったって1時間かそこら)ひとりのビトさんと一緒に旅ができたときは頂上のおわかれで画面霞んで見えないレベルで泣いたけど、その場でやれることといったら砂に相合傘描いてぽよぽよ鳴きまくるくらいしかない。

 それこそが人生における「他者」の存在なんだと、システムそのものが語っているから、みんな「オンラインでやれよ!」としつこく薦めるんだと思う。旅の根底には揺るがない孤独があり、誰もが基本ひとりで旅をするのだと了解している。一方で、偶然出逢った誰かと何かが通じ、労り労られ、厚意を受け、施し、孤独を慰められる瞬間がある。それでも容赦なく終わりはくるし、どんなに親しくなっても次の同行の約束はできない。

ゲームという媒体において、システム自体がテーマを実現し、物語ることに成功してるってのは作品としてこれ以上ない完成形なわけで、そりゃアワード総なめで美術館展示もされるだろう。このシステム考えた方は一体天から何ブツ与えられたというんだ。


赤ビトさんの能力制限の理由?

 これは、白ビトさんとの対比メインで。

 壁画で赤ビトさんがどのように生まれたのかが描写されてるので、一応おさらい。もともとこの砂漠には高度な文明があり、それを生み出していたのは白ビト(それも、おそらくカーチャンと同種かそれに近いと思われる)。が、どうもエネルギー源である布生物の枯渇?が引き金となって白ビト同士が戦争を始め、彼らは滅んだらしい。そして彼らのたましい的なもの、光るシンボルが空から降り注いで赤ビトさんが登場……という流れ(だったはず)。

 んで、シンボルのコンプで手に入る白ローブ姿には飛翔力回復機能がある。この白の能力から考えるに、かつての白ビトさんたちはかなり「優秀」な存在だったんじゃないかと。赤ビトの方は、布生物たちや同行ビトさんに接触したり声をかけてもらわないと飛翔できない。単純にどっちがより優れた能力かといえば、当然白ビトの方。

 進化論でもID論でもいいんだけど、赤ビトが白ビトを母体として生み出されたにもかかわらず個の能力は低くなっている、ということに、それなりに意味とか理由があるんじゃないか、という邪推をしてみた。

 昔の白ビトたちは、自分の基礎行動に際して布生物にも他人にも頼る必要がなく、だからこそ非情だったんじゃなかろうか。布生物を乱獲して動力源として扱っても、同族と戦争やらかしても、短期的にみれば白ビト自身は大して困らない。いきつくとこまでいった結果、彼らは自分たちが築き上げた文明ごと自滅する、という悲惨な結末になった。その愚を踏まえて、次の世代として赤ビトを送り出すとき、あえてその能力を矯めたのかもな、と。

 赤ビトは布生物から、あるいは、他のビトさんからしか飛翔の力を蓄えられないようにできている。だから鳴き交わしたりくっついたりする。センチメンタルな表現をするなら、優れたいきものがその優秀さゆえに共生に失敗して世代ごと死に絶えたとき、今度こそ他者と共生できるよう願った結果が赤ビトさんの能力的限界の理由だったり……つまり彼らは退化したわけでも何でもなく、むしろ、弱さや無力さを「獲得」したんじゃないかって話です。なんかこう、そう思うと赤ビトさんがめちゃくちゃやさしいいきものに見えませんか。ませんか。


短いプレイ時間

 これについてはストーリーのエンディングのところで散々言っちゃったんでひとことで。

 たぶん、ちょいちょいセーブして続きから進めるシステムじゃないからだと思う。一回の旅をワンプレイで終わることを想定してるはず。理由はいわずもがな、あるビトさんの生から死までを一気通貫で味わう、という演出のためだろうなと。


 文字通り、「人生は短い」ということばを言外に告げられている気がする。

 
 

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